近所のスーパーで買い物していた時のこと。
夕方前で、鮮魚コーナーはそこそこ混んでいた。
私は晩ごはん用に何か買おうと思って、刺身の棚をぼんやり見ていた。
その時、隣にいた年配のご婦人が、パックをひとつ手に取って首をかしげた。
そして近くを通った店員さんに、ものすごく真剣な顔で聞いた。
「すみません、この“赤い顔”って、どんな魚なんですか?」
私は思わず値札を見た。
そこには、
「あかいかお刺身」
と書いてあった。
つまり「あかいか」のお刺身。
でも文字の並びだけ見ると、たしかに「あかい顔」に見えなくもない。
ご婦人は完全にそれを魚の名前だと思っている。
ここまでは分かる。
問題は店員さんだった。
普通ならそこで、
「あ、こちらは“あかいか”です」
と一言で終わる話だと思う。
でもその若い店員さんは、なぜか少し姿勢を正した。
値札をじっと見て、ご婦人の顔を見て、また値札を見た。
そして真顔で言った。
「少々お待ちください。上の者を呼んできます」
私は心の中で叫んだ。
いや、呼ばなくていい。
たぶん誰も呼ばなくていい。
ご婦人も「あら、そんな大げさなことじゃなくて」と言いかけたけれど、店員さんはすでに小走りで奥へ向かっていた。
数分後。
鮮魚担当らしき男性が、エプロンを直しながら出てきた。
若い店員さんが、ものすごく丁寧に説明している。
「お客様が、赤い顔という魚についてお尋ねでして」
その言い方で、私はもう無理だった。
赤い顔という魚。
新種みたいに言わないでほしい。
しかも上司の方も、最初は真面目な顔でうなずいていた。
「赤い顔……ですか?」
ご婦人はパックを見せながら、
「これです。赤い顔って書いてあるでしょう?」
と、まったく悪気なく言った。
上司は値札をのぞき込んだ。
若い店員さんも横からのぞき込んだ。
私も隣で見ていた。
その瞬間、上司の眉が少しだけ動いた。
たぶん気づいた。
でもさすが鮮魚担当。
そこで笑わなかった。
「こちらはですね、“あかいか”です」
と、ものすごく穏やかに説明した。
「赤い顔ではなく、あかいか、というイカのお刺身ですね」
ご婦人は一瞬ぽかんとしてから、値札をもう一度見た。
そして小さく、
「あらやだ。本当だわ」
と言った。
そこまではまだ耐えられた。
でも若い店員さんが、横で急に安心した顔になって、
「よかったです。赤い顔という魚ではなかったんですね」
と言った瞬間、私は完全に負けた。
棚の前で吹き出しそうになって、慌てて別の方向を向いた。
何がよかったのか分からない。
でも本人は本当に安心していた。
上司も少しだけ口元を押さえていた。
ご婦人は恥ずかしそうにしながらも、
「じゃあ、この赤い顔じゃないイカ、いただくわ」
と言って、そのパックをカゴに入れた。
それを聞いた若い店員さんが、また丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。“あかいか”でございます」
もうやめてほしい。
丁寧に言えば言うほど、こっちの腹筋がもたない。
そのあと私は別の刺身を買うつもりだったのに、気づいたら同じ「あかいか」を手に取っていた。
レジに並んでいる時、前にさっきのご婦人がいた。
ご婦人はレジの人に向かって、にこにこしながら言った。
「これね、赤い顔じゃないんですって」
レジの人が一瞬固まって、それから値札を見て、
「あ、あかいかですね」
と答えた。
ご婦人は満足そうにうなずいた。
「今日ひとつ賢くなったわ」
その言い方があまりにも平和で、私はまた笑いそうになった。
家に帰ってから、その刺身を食べた。
普通においしかった。
でも箸で一切れつまむたびに、あの店員さんの真顔が浮かんだ。
「赤い顔という魚についてお尋ねでして」
たぶん私は今後、スーパーで「あかいか」を見るたびに思い出す。
あの日、刺身売り場に一瞬だけ現れた、幻の魚。
赤い顔。
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